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「未解決事件:1998年の高橋徹也」補足記事(『白旗 第2号』より)

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 以下は『白旗 第2号』に掲載された「未解決事件:1998年の高橋徹也」(以下、「未解決事件」)の、著者本人による補足・解説記事です。次も合わせてご利用ください。

 補足事項を列挙していきます。

幽霊・悪魔・世紀末的なもの

https://www.youtube.com/watch?v=q-yfjR-sius&ab_channel=bakuowner
(1998年、「スペースシャワーTV」で流れた映像)

 1997-98年という時代から少しばかり、高橋徹也を再考してみたいと思います。

〈鏡の前に~〉には「正体不明の人に囲われ/なんだか俺まで分からなくなるのさ」という詞もあり、鏡を二枚合わせた時のような自己像の無限増殖を予感させる。「俺」はこういった「自己の中の他者」の把握が、「他者から独立して存在する自己」という近代的自我の幻想を崩壊させることを恐れる。

※:〈鏡の前に~〉=〈鏡の前に立って自分を眺める時は出来るだけ暗い方が都合がいいいんだ〉

『白旗 第2号』p.21

 本当にそうでしょうか? 最終的な結論としては良いでしょう。しかし第一義的には、「高橋徹也は幽霊の出現を待ち望んでいた」と読む方が妥当ではないでしょうか? (比喩として持ち出した)「鏡の二枚合わせ」は単純にオカルトチックなモチーフではないでしょうか? ここに世紀末的なものの到来を宣言することができます。

 とはいえ、です。「スペースシャワーTV」で流れた映像を観ていると、過剰なホラー演出から逆に高橋徹也のオカルト性の薄さが浮き彫りになっています。彼は根本的に、「簡単に言うならリアリティ/それしか反応しない」(〈犬と老人〉)人間なのです。じゃあ「リアリティ」って何なんだよという話は、「未解決事件」にある程度書いてあります。

 世紀末イシューに乗っているようで乗れていない(乗っていない)ところが、高橋徹也の面白さではないでしょうか。

 関連して、「悪魔」というモチーフをとりあげましょう。EP『新しい世界』(1997年)収録の〈悪魔と踊れ〉はそのものずばりであり、表題曲〈新しい世界〉にも「君に似た悪魔」というフレーズがあります。

 ここからは「悪魔祓い」「教会」「吸血鬼」といったモチーフが飛び交うゴシック文学の匂いがしません。また、この「悪魔」の役割は「悪意的な契約主体」であって、真に超越的なもの=オカルト的なものを感じません。

 そうなると、ロバート・ジョンソン「クロスロード伝説」における「悪魔」くらいしか持ち出せないんじゃないかと思います。しかも、ブルースの伝説ではなくロックの伝説だと再解釈された形で。

 1997年、ロックの終わりが囁かれ始めた時代に、ジャズ色の強い奇妙なロックから眼差した、初期ロック神話。契約の果てに高橋徹也がどうなったかは、やはり「未解決事件」に書いてあります。

ノワール音楽小史

『夜に生きるもの』と『ベッドタウン』の二枚ほどノワールモチーフを重用したアルバムは、日本の音楽史上存在しない。高橋徹也はなぜノワールというベタでクサいモチーフを必要としたのか? どのように利用したのか? これらの問いを念頭に置きつつ議論を始める。 

『白旗 第2号』p.19

 「未解決事件」の目的の一つは、高橋徹也の楽曲に現れるノワールモチーフを様々な視点から位置付けることでした。

 結論の1つを述べます。「郊外」「閉塞感」という未だ需要と供給の絶えないテーマをノワールで表現するのは、明確に高橋徹也の発明です。彼を「ロック・ノワール1の開祖と呼んで差し支えないでしょう。

 ところで、高橋徹也以前/以後のポピュラー音楽においてノワールはどのように扱われていたのでしょうか? 音楽全体におけるノワールの位置付けを考えておくことも無駄ではないでしょう。

 ただし、「ノワール 音楽」「noir music」などで検索してもまともに引っかからないため、ほぼ独自研究です。ノワール音楽に詳しい方がいらっしゃいましたらご一報いただけると助かります。

①フィルム・ノワール

(1970年代フィルム・ノワールのサウンド・トラック)

 ノワール映画自体は1930年代初頭からありました。しかしそれがジャズと結びつくのは1958年、ルイ・マル(監督)/マイルス・デイヴィス(音楽)『死刑台のエレベーター』あたりのフランス・フィルム・ノワールからではないでしょうか。ここにおいてモダン・ジャズ=フランス映画=ノワールの観念連合が成立します。

 高橋徹也もまず、フィルム・ノワールのサウンドトラックとして「ノワール音楽」をイメージしていたのでしょう。〈ナイトクラブ〉が明らかな例です。

②日本のノワール歌謡

 ノワールと同根である「ハードボイルド」の方で検索してみると、昭和ハードボイルド歌謡というCD5枚組セットが見つかりました。ここからノワール歌謡の世界を少しばかり紹介したいと思います。

 どうやら1955年頃、当時「歌う映画スター」として人気を博していた鶴田浩二が〈赤と黒のブルース〉という曲を歌っているようです。しかもこの曲、「ナイトクラブ」というフレーズが出てくるんですね。聞いてみましょう。

 ……はい、ムード歌謡ですね。むしろムード歌謡初期のヒットとして記憶されるべき曲です。

 〈赤と黒のブルース〉は後に映画化されました(1972年。人気曲が映画化される文化の終わり頃?)。これに代表されるように、和製フィルム・ノワールは基本的にヤクザ・義理・人情ものです。現代の私たちからすると、ノワールと呼ぶには乾いた非倫理性が足りない気がします。

 高倉健〈唐獅子牡丹〉(1966年)は「昭和残侠伝シリーズ」の主題歌ですが、出だしのフレーズが「義理と人情を 秤にかけりゃ/義理が重たい 男の世界」(作詞:矢野亮・水城一狼)ですからね。

 歌手と歌の内容の距離がとれている、「なんちゃって」の歌謡世界。和製フィルム・ノワールも今後復刻できたら面白いかもしれません。

 しかし、とりあえず高橋徹也とはなんら関わりが無さそうです。むしろここから高橋徹也に至るまでの時代変遷が興味深い、ということでノワール歌謡をとりあげました。

③海外のノワール音楽

 歴史化できるほどの流れがあるわけではないので、列挙していきます。

 第2次世界大戦前のブルースには、「間男殺害もの」とでも呼ぶべき物語類型がありました2。家に帰ったら妻と間男が逢引している場面に遭遇、怒りのあまり間男を(場合によっては妻も)殺害、ああどうして──というような筋書きです。

 録音音楽の開始と同時期(以前?)から殺人がポップスになっていたわけです。流行り歌はニュースメディアとしての役割が大きかったですから、ブルースに限らず各国にこのような歌があったことは想像に難くありません。

 戦前ブルースの場合、怒り・悲しみ以外にもユーモアの側面が強い。というか全部の感情が垂れ流しのように入っていることが多いので、ノワールと呼ぶのは無理がありそうです。

 明確に小説・映画で「ノワール」というジャンルが誕生(1930年頃)してからを扱います。

 AORのスティーリー・ダン〈Don’t Take Me Alive〉(1976年)は父殺しをテーマにしており、ギリギリ広義のノワールと言えそうです。「俺は簿記係の息子だ」というサビの詞はあまりに悲痛で皮相ですが。

 他にSSWのウォーレン・ジヴォン、サイコビリーのメテオスがノワールじゃないかと言われたことがあります。しかし具体的にどの曲が、となると調べがついていません。

 ヒップホップには、もう山のようにギャングものがあります。エリック・B & ラキム〈Follow The Leader〉(1988年)のMVはもろに1930年代暗黒街マフィアものです(その時代のギャング映画に一切出てこなかったアフリカ系アメリカ人が主役になっているのがミソ)。しかし、ヒップホップには多くの犯罪・暴力・ギャングモチーフがあるものの、基本的に成り上がってしまいます。ノワールの「破滅する」という結末部と相性が悪いかもしれません。これも気持ち次第というか、探せばちゃんと破滅まで描くギャングスタ・ヒップホップはありそうです。

 2005年頃から、映画とあまり関係を持たない「Rock noir」と呼ばれるゴスのサブジャンルが生まれたらしいです。Belladonna『Metaphysical Attraction』(2005年)が開祖だとか。

Rock noir is a modern genre of music that is strongly influenced by bands such as Nick Cave and the Bad Seeds and Crime and the City Solution, darker bands from the 1960s such as The Doors and The Velvet Underground, and composers such as Kurt Weill and Erik Satie.

Rock noir music

 クルト・ヴァイルやエリック・サティまで行くと「???」という感じ。とはいえ本格的に「ノワール音楽」を考えるなら、もっと大きな枠組みを使うべきなのは納得できます。つまり、ハードボイルド・ギャング・サスペンス・ミステリー・ホラーといった具合です。

 「Rock noir」の名を出したついでに1つ注意しておきましょう。サイケ・ゴシックロックと高橋徹也は全く異なる系譜にいます。それは音色からも明らかで、高橋徹也はほぼずっとディストージョンの少ないギターを使っているのでした。

④日本のノワール音楽

 和製フィルム・ノワール以後、ロック以後のノワール音楽について。列挙していきます。

 「架空の映画サウンド・トラック」として制作されたムーンライダーズ『カメラ=万年筆』(1980年)は、わりあいノワール色が強いアルバムです。

 高橋幸宏『音楽殺人』(1980年)『NEUROMANTIC』(1981年)におけるハードボイルドは、一応このリストの中に加えておきましょう。

 単発の曲だと、小沢健二〈昨日と今日〉(1990年)はノワールものと言えます。

 高橋徹也と同時期、『代理母』(1998年)をリリースした面影ラッキーホール(現:Only Love Hurts)がいました。「X-RATEDノワール歌謡ファンクバンド」を名乗るこのバンドは、歌詞がスティーリー・ダンのおしまいの部分を拡大したようなものなので、広義のノワールに含めるべきなのでしょうが……。破滅のカタルシスというか、あらかじめ破滅しているんですよねこれ。

 この短いリストを眺めていると気付くことがあります。高橋徹也以外の作例は全て、ノワールを本質的に第3人称として、ストーリー・テリングで語っていることです。ひるがえって本質的に第1人称でノワールを語ったことに、1998年の高橋徹也の特異性を見ることができるでしょう。しかしこれは困難な作業だったのか、「二つの怪物」以後、高橋徹也はノワールモチーフを放棄します。

その他雑記

 1999年の〈音のない音楽〉に次のような詞があります。

優しいメロディ 
悲しい言葉
気安く誰かが言うけれど
どんな気分で唄っているのか
分からないのか

〈音のない音楽〉作詞:高橋徹也

 すいません、一言いいですか? 分かるわけねぇだろ

 1998年の高橋徹也は「伝える」ことにさほど意識を払っていないように、私には聴こえます。

 あと高橋徹也のメロディはどう考えても優しくないです。たとえば〈新しい世界〉のサビは音程がとてもとりにくい。

 最後に、〈もっとぎゅうっと〉という曲を紹介して、この記事を終わりにしたいと思います。

いつも退屈に思ってた
それ以外することがないのか
なんて言ってた僕が歌う恋の歌

心境の変化 
丸くなってしまったのか
わるいけど僕は先に行くよ

〈もっとぎゅうっと〉作詞:高橋徹也

 これ、1999年以降の歌詞に見えるでしょう(少なくとも私はそう判断しました)。一応「恋」を扱ってるし(「恋・愛」という言葉を使うのは『POPULAR MUSIC ALBUM』(1996年)および99年以降)、「僕」が「先回り」してるし(「先回り」は「二つの怪物」期に特徴的なワード)。

 でも、没曲集『太平洋』(2016年)に収録されているので、どうも97年の作品のようです3。現物が手許に無いのでなんとも言えないんですが。

 「二つの怪物」の裏側にあった『太平洋』、これをどう思うべきでしょうか? 『太平洋』が世に出ていたら今とは全く違う高橋徹也があり得たのでないでしょうか? 高橋徹也研究の種は尽きません。

脚注

  1. 後述のゴスのサブジャンル「Rock noir」(2005年)から名前だけ借りて、この記事において初めて名付けを行います。「Rock noir」よりタカテツの方が歴史的には先です。またゴスとジャズ寄りでサウンドは全然違います。
  2. 出典忘却。思い出したら追加します。
  3. 次を参照。『セルフ・ライナーノート』
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