書評

大和田俊之『アメリカ音楽史』【音楽本から学ぶ聴く技術・書く技術】

大和田俊之『アメリカ音楽史』【音楽本から学ぶ聴く技術・書く技術】 書評

いま人文書のマナーで音楽について書くなら必読の本、と言っても許されるだろうか。

大和田俊之『アメリカ音楽史 ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで』(講談社選書メチエ、2011年)

要約・紹介

 本書の主題は、録音以前の19世紀中頃から21世紀までに及ぶ、アメリカポピュラー音楽150年の歴史である。それをアカデミックな手法で描ききったのが一番の特徴だろう。
 『文化系のためのヒップホップ入門』(長谷川町蔵との共著、2012年~)などでも知られる著者の大和田俊之は、もとはアメリカ文学研究からキャリアを始めた人だった。本書にもそこから得た知見と方法論が存分に活かされている。

 なんといっても単純に面白い。事柄の整理が上手く、情報が密に詰まっているのに読みやすい。さらに政治・経済・社会・思想といった音楽の外部への接続が巧みである。

 たとえば、本書はポピュラー音楽の出発地点を19世紀のミンストレル・ショウに設定している。これは「白人」が顔を黒く塗り、「黒人」の形態模写をおもしろくおかしく演じるという人種差別的な演劇の形態なのだが、その音楽的影響とともに著者は、ミンストレル・ショウがまさに「白人/黒人」という今日まで続く人種カテゴリの対立を創りあげた場であることを指摘する。
 いや、正確にはそこで生まれたのは「白人」の方だった。つまり、ミンストレル・ショウ以前は同じヨーロッパ移民でも民族や出身国によって扱いが違うのは当然だった(今でもそうと言えばそうだが)。しかし「想像上の黒人奴隷」といういびつな「鏡」を通して初めて、演者のユダヤ人も観衆のアイルランド系労働者も、社会上層に居るアングロ・サクソンと同じ「白人」というカテゴリ・アイデンティティを獲得したのである。
 ここで生まれた人種対立の構図、さらには「私」ではない誰かの振りをしたいと願う「擬装」の欲望(ミンストレル・ショウの場合は人種擬装のみならず同性愛的なエロスもが織り込まれている)が、その後150年のポピュラー音楽史にも深く根付いている――といった歴史語りのダイナミクスが本書の魅力である。面白くないわけがない。

 またジャンルの「歴史化」の歴史をたどる、という検討作業も中々スリリングだ。たとえば1920年代は本来、あらゆる流行歌がとりあえず「ジャズ」を名乗っていたようなジャズ黎明にして狂熱の時代だった。しかしその中からニューオリンズ・ジャズとシカゴ・ジャズだけが「歴史的に正統な」ジャズとして認定されて、他は無視されるようになったのは、果たしていつ頃からなのか?

 ただ一点注意しておくと、本書は初心者向けに書かれてはいない。

 本書で一貫して行われているのは、音楽ライターによる従来の「大文字の歴史」を解体し書き換える作業である。1960年代前半のスター不在のブリル・ビルディング・サウンドを褒めたたえる一方で、ロックの扱いが笑ってしまうくらい軽いあたりに顕著だ(1970年代以降のロックの話はない!)。それゆえ逆説的に、「大文字の歴史」の方を知っておかないと何を批判しているのかポイントが掴みにくいだろう。なお、このスター主義批判が1980年代以降の文学研究の動向に倣ったものであることを著者は明言している(p.159)。
 音楽に詳しくても、人文書のノリについていけるかという問題は別途生じるかもしれない。アカデミックな書きぶりにしてはとっつきやすい方だとは思うが。

 難易度の問題は残るものの、アメリカ音楽の通史を信頼できる形でコンパクトにまとめた稀有な本であることは間違いない。良い通史本というものはそれだけで貴重だ。

 ところで私が本書について真に問題提起したいのは、前提知識の多さに関してではない。

聴く技術・書く技術

 「音楽本から学ぶ聴く技術・書く技術」という書評シリーズの主旨をここで説明しよう。といっても名前の通りで、音楽の本をただ面白がるのではなく、私たちの日常的な音楽の聴き・語り・書きに、音楽本がどう活きるか考えるのが目的である。音楽本をある種の実用書として読む、よこしまな企みと言ってもよい。

 「書く技術」の方が説明しやすいので、そちらから片付けていこう。

 『アメリカ音楽史』は2000年代以降のポピュラー音楽研究の粋のような本であり、人文書・研究書のマナーで音楽について書くなら参考にするところ大だろう。それと同時に学ばなければならないのは、「音楽を通じた社会批評はここまで徹底的に調査しないと面白くならない」ことである。
 本書で行われているのは王者の仕事である。形だけ真似て、音楽から人種・ジェンダー・階級・ポストコロニアリズムといった話題を論じようとしても、おおよそナイーヴでつまらない語りに堕するだろう。社会批評を主とするなら徹底的に調査すべきだし、そうでなければ音楽批評を主として、人文批評的な話題は補助的に用いた方が説得的になる。

 「聴く技術」について。いろいろ考えたが私の結論は、「本書はオルタナティヴな音楽の書き方を与えるが、オルタナティヴな音楽の聴き方を与える本ではない」ということになる。

 本書は音楽ライター的な「大文字の歴史」は更新したかもしれない。だが音楽の聴き方を更新できたとは思えない。そもそも、聴き方に関する判断を審美的水準とみなし、アカデミックに取り扱えないものとして退けているきらいがある。音楽ライター的な書き方をしている『文化系のためのヒップホップ入門』と比べると、目的意識の差は明確になる:『文化系』の末尾に付いているのはディスクガイドだが、『アメリカ音楽史』の末尾に付いているのはブックガイド(参考文献紹介)だ。
 さらに言うと、音楽を聴いていないのではないかという瞬間すらある。次に抜粋する文章では、「モードジャズとロックンロールを同時代の現象として読む」という巨大な構図が先行しており、根拠となるべきモードジャズの時間性に関する分析が説得力を欠く。

ジャズ史におけるモード奏法の成立には時間(歴史)感覚の相対的な喪失と「空間化」という特質を読みとることができたが、それはロックンロールからスペクター・サウンドにみられる過剰なまでの残響効果の使用と並行している。ロックンロールの流行とモード奏法の成立は「時間」感覚に代わって「空間」がせり出してくるサウンドという点において確かに同時代性を共有しているのであり、そこにはのちに詳述する音楽のポストモダニズムの萌芽をみることができるのだ。

『アメリカ音楽史』p.176

 教訓(書く技術):構図先行の議論はプロもアマチュアもやりがちなので注意しよう。

 関連して、大和田俊之には『アメリカ音楽の新しい地図』(2021年)という別の著作がある。9人の現代ポップミュージシャンを対象に抜群の社会批評を繰り広げており、こちらも面白い本だ。ただやはり、議論の過程で「この曲」である必要性が一切ない。必要なのは、ヒットソングという現象であり、社会に流通するアーティストのイメージだ。

 音楽を聴かずに音楽について語る?

 『アメリカ音楽史』の話に戻る。本書はアメリカの歴史に埋もれたなんらかの声を聴く技術を与え、それはともすれば音楽を聴く技術より大事かもしれない。だが、それは音楽を聴く技術ではない。この価値転換、聴くことよりも聴くことの周囲を探索することこそ、ポピュラー音楽を学問の俎上に載せるために必要だったのか。

 さて、これまで述べたことは実のところ、昨今のポピュラー音楽研究書には多かれ少なかれ当てはまることである。「この本」である必要性はない。本書がアメリカ音楽に対してやっているように、本書を都合の良い口実として、ポピュラー音楽研究のイデオロギーを分析してみせたわけである。

Theme from “Com On Music”


 私たちは、というのは顧問ミュージック一同のことだが、音楽批評の現状に疑問を抱いている。

 音楽に関する言説のプロは今のところ、音楽ライター・ミュージシャン・研究者の3つに分けられるだろう。それぞれについてコメントしたい。

 音楽ライターの言説は過去、レコード会社のコマーシャリズムと密接に結びつき、質の低い文章が濫造されたこともあった。サブスク時代においては市場が縮小したせいで、今度はファン向けの文章しか書くことを許されていないように見える。また信頼できる良心的音楽ライターに関しても、音楽をたくさん聴いておりその知識量には目を見張るが、一曲を詳細に分析することは苦手としているように見える。これは単に、そういった分析を書く場が今まで無かったせいかもしれないが。

 ミュージシャンは音楽の制作に一番詳しい人たちであり、その言説にはミュージシャンならではの分析が期待できるところである。だがミュージシャンは音楽から霊感を受けて作品を制作できればよいわけで、必ずしも説得的な言語化がうまいわけではない。また音楽理論を用いた分析や細かい録音技術の話は、「一般読者はそこまで求めていない」と判断した編集部(あるいはミュージシャン自身)によって差し止められるかもしれない。

 ポピュラー音楽研究者の言説に関してはすでに述べた通りである。研究者は音楽の周囲にメスを入れて新たな言説の可能性を作った。だがそれも新たなコマーシャリズムによってすでに回収されている(たとえば「ポリコレ」のようなファストな消費)。また音楽にもっと近い部分での研究(たとえば1980年代にあった音楽記号学など)は現在ほとんど行われていないようである。おおよそイデオロギー批評か、カルチュラル・スタディーズだろう。

 プロの音楽言説が分断されていれば、アマチュアの音楽言説も分断されている。特定アーティストの/特定ジャンルの/音楽全般のファンあるいはアンチで、それぞれ言説の地産地消が行われる。言説の越境が行われるのは、ミュージシャンの発言が炎上するなど政治的機会に限られており、やはり音楽そのものの語りではない。

 「棲み分け」が可能になったのはインターネットの祝福であり、呪いであった。

 多様といえば多様である。誰がどのような立場で書いたにせよ、面白く感じられるものは面白い。だが私たちは、もっと面白い文章(私たちにとって/あなたにとって)が増えてほしいと思うし、もっと異文化交流が行われてほしいと思うし、もっと音楽が面白く聴かれてほしいと思っている。それが可能だとも思っている。

 具体的な活動としては、「日本で唯一のポップス専門誌」を標榜する怪しげな雑誌『白旗』において、お手本となるべき多種多様な音楽批評を掲載していく。音楽ライター、ミュージシャン、研究者、アマチュアが、それぞれのアプローチ(あるいは普段はしないアプローチ)で筆を執る場を用意しよう。

 Web連載シリーズ「音楽本から学ぶ聴く技術・書く技術」では、面白い音楽本を紹介していくと同時に、音楽について聴いたり書いたりするための武器を提供していく。なおこのシリーズは雑誌『白旗』でも展開される。

 私たちの主張を突き詰めれば、「音楽に関する語りは難しいと世間に思われているけれど、必ずしもそうではない。テクニックを少し学べば面白い文章は書けるはずだから、とにかく書いてくれ」ということになる。

 以上の稚拙なアジテーションは、あなたを少しでも刺激し得ただろうか?

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