白旗

試供版「ピチカート・ファイヴと幻想の廃墟」(『白旗 創刊号』より)

pizzicato five - sweet soul revue 白旗

 『白旗 創刊号 2022年冬』掲載の論考「ピチカート・ファイヴと幻想の廃墟」より、第一節「風評のピチカート・ファイヴ」を公開いたします。なお紙媒体からWeb媒体への移行に伴い、表現を一部変更しています。予めご了承ください。

 

風評のピチカート・ファイヴ

 聞かれているようで聞かれていない。

 ピチカート・ファイヴ──1984年に活動を開始し、90年代には渋谷系の代表格の一つとして扱われたポップスグループ。本稿では、活動期間中ほぼ全ての作詞を担当し、『overdose』(1994年)以降ほぼ全ての作曲を担当した小西康陽を中心人物として論を進める──の知名度を推しはかることは難しい。メジャーではなく、しかし完全にマイナーでもない。穏当に分析すれば「ポップス好きや業界人に刺さったニッチな音楽」といったところか。

 こういった印象論的な分析が不毛であることを、私たちはよく知っている。それでも敢えて、「ピチカート・ファイヴは聞かれているようで聞かれていない」と言ってみよう。この主張を肉付けする過程で、ピチカートを取り巻く状況を整理し、次節以降への足がかりとする。

 

 まずはピチカートが「聞かれている」ように見える根拠を並べる。

 第一に、時事的な話題。夏季五輪の閉会式でピチカートの代表曲〈東京は夜の七時〉が使われたこと。しかも2016リオパラ閉会式と2020東京オリ閉会式の二大会で使われたこと。これを以ってピチカートがポップスとして定着しているとは言わない。むしろ単なるマニア受けの結果(この場合はメディア関係者への)だと邪推したくなる。とはいえ、企画段階で使ってよいと判断されるだけの知名度は、たぶんあるのだろう1

 第二に、活動停止から20年経った今でもリリースやインタビューなどの動きがあること。2021年には各種サブスク向けに、コンピレーションプレイリスト『配信向けのピチカート・ファイヴ その1/2/3』がリリースされている。2020年には小西康陽のソロユニットPizzicato Oneからライヴ・アルバム『前夜』が発表され、読み応えのあるインタビュー記事も書かれた。

 第三に、90年代渋谷系ムーブメントの旗手と目されたこと。60年代再評価。60年代と90年代の音楽(やファッションその他)を接続し、現代日本のポップス/音楽史観に大なり小なり影響を与えたこと。特に史観形成の側面はポップス好きの人々にとって重要である。──我々は未だに、小西康陽を通じて60年代の音楽を眼差していないだろうか? 小西以後どれほどアップデートが入っただろうか?

 ある程度名が売れ、ある程度忘れられることなく、ある程度歴史的重要性も生じた音楽グループ。こう書くとたしかに、ある程度は聞かれていそうである。

 

 実際はそうではない。ピチカートは想像以上に「聞かれていない」というのが以下の主張になる。

 補足:印象論ですら「聞かれていない」ことの説得は難しいと気付いたので、ここで補助線を引いておきたい。この論考の目標の一つは、(メインボーカルで言うと)田島貴男期から野宮真貴期序盤までの前期ピチカート2を再評価することにある。アルバムで言えば『ベリッシマ』(1988年)から『SWEET PIZICATO FIVE』(1992年)まで。つまり、「聞かれていない」で指す内容は主に「前期ピチカートが聞かれていない」であって、以下ではその傍証を探す。

 

 奇妙に響くかもしれないが、〈東京は夜の七時〉が代表曲扱いされていることをまず取り上げたい。いや、この扱いは現状では妥当である。ディープなピチカートマニアに代表曲を選ばせても、ほぼ全員が(政治的バランスを考慮しつつ)〈東京は夜の七時〉と答えるだろう。この曲はピチカートの成果の一つ「都市ブランド〈東京〉の更新」をよく示している。これと〈スウィート・ソウル・レヴュー〉がテレビ起用されて初めてピチカートが世間に知られた、という歴史的経緯も付記しておこう。

 だが、この代表曲扱いに疑義や違和感が生じないあたりに「聞かれてなさ」を覚えるのだ。ピチカートは〈東京は夜の七時〉に、少なくともそれだけに代表されるようなグループではない、と言いたい。たとえば同じ『overdose』(1994年)収録曲でも、〈ハッピー・サッド〉や〈陽の当たる大通り〉の方がずっと面白くピチカートらしいのではないか?

 次は〈東京は夜の七時〉問題にも通底する。ピチカート・ファイヴが「生活を豊かにするオシャレな大人の音楽」として消費され、当時のリスナーはその形のまま想い出に保存しているらしいこと。本稿執筆の動機となった問題である。「生活を豊かにするオシャレな大人の音楽」は、あくまで小西康陽が意識的にデザインしたピチカート・ファイヴのブランディングであって、内実とは必ずしも一致しない。むしろたびたび著しく乖離するし、乖離する部分こそが面白い、という認識が広まっていないのだ。

 たしかに「大人の音楽」的デザインは、デビューアルバム『カップルズ』(1987年)から一貫しており、若い都市生活者をリスナー層として狙い続けたことは間違いがない。さらには、サンプリング、諸々のオシャレ感、恋愛描写、皮肉、消費社会の過剰なまでの称賛、都市生活の虚無、といった要素で下支えされている。しかし、『女性上位時代』(1991年)や『SWEET PIZZICATO FIVE』(1992年)を中心に据えて活動全期を見返せば、ブランディングの破れ目は幾らでも見出せるだろう。この作業は次節で行う。

 

 実売を「聞かれていない」ことの証拠とするのは慎重を期すべきで、むしろ往々にして「聞く人は聞いていた」とみなされる傾向にあるが、興味深いので紹介しておく。

 フルアルバムで一番売れたのは『ROMANTIQUE 96』13万枚(1996年、最高10位)。次に売れたのが『overdose』12万枚(1994年、最高9位)。シングルは〈ベイビィ・ポータブル・ロック〉12.6万枚(1996年、最高19位)3。参考までに、渋谷系仲間のコーネリアスやオリジナル・ラヴは20万後半から30万枚、小沢健二に至っては50万枚も売り上げている。なお、1994年のシングルで最も売れたのはMr.Children〈innocent world〉181万枚とのこと。当時の10万枚は一応成功した部類に入るのだろうが……。ピチカートがCD全盛期、音楽雑誌で「渋谷系」という見出しが付けられた1994年に、他の渋谷系と比べて伸びきらなかった理由のいくつかは、本稿を通じて明らかになるかもしれない。

 ついでに「売れなかった」時期の動向も記しておく。『カップルズ』(1987年)は枚数不明。メインボーカルが田島貴男に移り、『ベリッシマ』(1988年)と『女王陛下のピチカート・ファイヴ』(1989年)が1.5千枚。次のリミックスアルバム『月面軟着陸』(1990年)が3.5千枚。ボーカルが野宮真貴に移り、『女性上位時代』(1991年)と『SWEET PIZZICATO FIVE』(1992年)が1.5万枚。次の『ボサ・ノヴァ2001』(1993年)でようやく8万枚と跳ねる。

 

 印象論を印象論で根拠づける作業にだいぶ足をとられたが、ピチカート・ファイヴの受容状況についてあらかた理解されたものと思う。

 現在広まっているピチカート観は野宮期中盤以降、アルバムでいえば『ボサ・ノヴァ2001』(1993年)以降を中心としている。特に1年の休止期間を経た『ROMANTIQUE 96』(1996年)以降は「(クラブミュージックのテイストを混じえた)アコースティックでオシャレなグッドポップス」のフレーバーが自己再生産された時期である、と乱暴に要約してしまっても以下の議論には影響しない。4

 先に見たように、実売は93-96年に跳ね上がっている。結局のところ当時のリスナーやレコード会社が求めたのは、93年以降のグッドミュージック・フレーバーであって、それまでに行われた数々の実験・発明は忘れ去られたようだ。

 そういった従来の見立てを逆転させ、『SWEET PIZZICATO FIVE』(1992年)までの前期ピチカートを再評価すること。小西康陽が施したブランディングを剥がし、ピチカートを〈東京は夜の七時〉から解放する手立てを与えること。これらが本稿の(非現実的な)目標であり、そのためにはピチカート全体をいくつかの視点から捉え直す必要がある。

 

(第一節、了)

 

以降のあらすじ/著者コメント

 「ピチカート・ファイヴと幻想の廃墟」全体の構成をご紹介します。

 

1.風評のピチカート・ファイヴ

 「ピチカート・ファイヴは聞かれているようで聞かれていない」という問題意識を提示しながら、ピチカートの現在の受容状況を整理します。特に〈東京は夜の七時〉が代表曲とされ、「生活を豊かにするオシャレな大人の音楽」として消費されている現状に警鐘を鳴らします。

2.廻転のピチカート・ファイヴ

 小西康陽の手癖として、作編曲など様々な側面から「反復」を見出します。反復に関して一番問題となるのは歌詞であり、語彙の狭さがミーム化をもたらしています。たとえば、「めざめ・起床」は11曲に出現。「口づけ・キス」は25曲。「死」は14曲。

3.仮面のピチカート・ファイヴ

 野宮期ピチカートの歌詞における語りの構造を観察します。歌詞に描かれるキャラクターと野宮真貴のキャラクターはどうして乖離しているのでしょうか? 鍵となるのはメンバーの力関係、SSW・バンド文化圏の対称関係に隠蔽された、歌謡曲の「作家先生/アイドル」のような非対称関係です。

4.恐怖のピチカート・ファイヴ

 恐怖とはつまり、女性恐怖のことです。小西康陽のファム・ファタールへの姿勢は両義的であり、破滅したいと言いながら本当は破滅したくないこと、野宮真貴をピグマリオンとして扱っていることを述べます。最後に、彼の鋭い自意識から「ロマンティック・アイロニー」5を見出します。

5.結語のピチカート・ファイヴ

 「切断」という語によって論考をまとめます。「切断」とはすなわち、ゴダール的なコラージュであり、コミュニケーションの拒否であり、クールの演出です。

 

・著者コメント(古い土地
 ピチカート・ファイヴに限ったことではありませんが、「ポピュラー音楽にまつわる人・モノ・出来事」6の批評・研究と比べて、「聴くこと」の批評は数が少なすぎます。その点から拙稿を読み返すと、「ピチカートをどう語るにせよ当然押さえるべきことを押さえただけのピチカート総論(しかしこの程度の「聴くこと」すら語られてこなかった!)」になった気がします。
 本稿を足掛かりとして、より刺激的なピチカート論が編まれることを願います。

 

・お知らせ
 『白旗 創刊号』は現在全国の書店で好評発売中です。一部書店はネット通販にも対応しています。
 『白旗 第2号』には同著者による「未解決事件:1998年の高橋徹也」が掲載される予定です。高橋徹也は1996年に渋谷系からキャリアを始め、1998年には実存主義文学とノワールを取り入れた異常なロック──自称「二つの怪物」、菊地成孔いわく「ツイステッド・ポップ」──にたどり着きました。90年代日本の、ピチカートとは別の理由で語られてこなかった、今聴かれるべきポピュラー音楽。機会があれば是非ご覧ください。

 

脚注

  1. 原注:ただしリオパラでは歌詞の8割が改変され、東京オリではインストBGMとして使われている。リオで「お腹が空いて死にそうなの」と歌わせる気概を見せて欲しかった。
    Web掲載時の注:リオパラでのパフォーマンスについては次の動画を参照。『Rio Paralympics closing ceremony;Spectacular Moments Tokyo 2020 Welcomes』3:50~
  2. 原注:「前期/後期」の分け方はこの論考独自のものであり、一般的ではないことに注意。メインボーカルの変遷を確認しておくと、佐々木麻美子・高浪慶太郎(1984~1987年/『カップルズ』)→田島貴男(1988~1990年/『ベリッシマ』~『月面軟着陸』)→野宮真貴(1991~2001年/『女性上位』~『さえら』)となる。田島貴男はピチカート脱退後、オリジナル・ラヴでメジャーデビューする。
  3. Web掲載時の注:ベストアルバムで最も売れたのは『ピチカート・ファイヴJPN〜Big Hits and Jet Lags 1994-1997』の7.7万枚(1997年、最高18位)。「ピチカートはベスト盤で聞かれていた」わけでもなさそうだ。
  4. 原注:93年以後のピチカートについて一部擁護しておく。『overdose』(1994年)と『フリーダムのピチカート・ファイヴ』(1996年)は文句のない名盤だと筆者は考えている。『プレイボーイ・プレイガール』(1998年)『さえらジャポン』(2001年)はまあまあの出来。名前を挙げなかったアルバムは聞き通すのが辛い。良い曲もあるが悪い曲も多く、アルバムコンセプトが希薄。
  5. 「村上春樹の作品を一つでも読んだことがあれば、その主人公を想起してもらいたい。彼らはロマンティック・アイロニーに身を浸している。[……]ロマンティック・アイロニーはロマンティシズムではない。彼らは夢を見ないのだから。またそれはリアリズムでもない。彼らは夢見ないことを夢見るのだから。/ロマンスから距離をとりつつも、自己の有限性は認めず、超越論的な立場を確保しようとする姿勢。皮肉と皮相によって自己を守るのだ。」『空ろなるヒーローたち①:フォークナー『響きと怒り』『アブサロム!』のクエンティン・コンプソン – 古い土地』 
  6. たとえば渋谷系の文脈を周縁から追った本として、音楽ナタリー編『渋谷系狂騒曲 街角から生まれたオルタナティヴ・カルチャー』(リットーミュージック、2021年)がある。見立ての新鮮さはないが、一部有用。
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